箱の中の犬

時事川柳とは


時事川柳とは

 一般的に、川柳は批判をすることという認識が持たれていますが、川柳の元である前句付の「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」に収められている11万3600余りの句の中で、役人批判の句は、

   役人の子にぎにぎを能く覚え
   さまざまに扇を遣う奉行職

という二句しか見当たりません。                  

 また、俳諧の俗性が独立して川柳になったことを踏まえても、現代の川柳の批判性は頗る希薄であると言えます。新聞、ラジオ、雑誌による二ユースは読み手には選択肢のない洪水のようなものです。社会の細分化と同時に、ニュースにも専門分野の解説が要る状況です。要するに読者である一般市民は、新聞等のマスメディアから与えられたものを耳や目にするという一種の押し付けが多く受け身に立たされております。                              

 理路整然としたニュースの裏に、見え隠れする読者の鬱とした感情は筆舌では完全に溶かされるものではありません。読者はその記事の行間の襞を知りたいと思っても、襞に隠された微妙な悪臭に触れることは至難の技です。それには、落首や落書の批判精神を引き継いでいる時事川柳の持つ表現が読者の魂を打つ撥として作用しています。    

 戦後の民主主義の世でも、ニュースや記事の浅い部分、裏側の臭い部分は大方の読者は感知していますが、その事実を白日の下にさらし、どうこうしようとする手段や論法は一般庶民は持ち合わせておりません。時事川柳の特質は、落首や落書の精神で事実関係の表皮を広く剥ぎ取り、その裏側に潜んでいる醜い事実や臭い現実を、客観的に白日のもとに暴き出すことなのです。

 

時事川柳の契機 

 

 新聞『日本』の紙面において、正岡子規が俳句の革新文堂を展開しました。さらに、川柳の中興の祖である阪井久良岐・井上剣花坊が初めて川柳欄を持った新聞です。​発句の呼び名を「俳句」と改めた正岡子規が間接的ではありましたが、新川柳の勃興とともに、時事川柳の流行に一役買っていたことはあまり知られておりません。         

 新聞『日本』の創刊は、明治21年2月11日(大日本帝国憲法発布・紀元節)です。発行者は、青森県生まれの田中実で、主筆には兵庫県生まれの古嶋一雄がなりました。この古嶋一雄によって、現代川柳の基となる端緒を開拓したと言って過言ではありません。       

 正岡子規は、東京大学国文学科を中退し、日本新聞社に入社したのが明治25年6月のようです。入社一か月後のころ、当時の政府から新聞『日本』は発刊停止を命ぜられておりました。          

 ある日、古嶋一雄は子規に何か一句できないかと雑談的に言ったおりに、子規は即興的に、

     君が代も二百十日は荒れにけり

と詠みました。「君が代は」とは、新聞『日本』であり、発刊停止を命ぜられたのが210日頃の時期です。俳句時事評の発端ともいえ、これを契機に古嶋一雄は政治批判を時事俳句でやる決心をしたと言われています。 

 その当時、次のような時代背景の伏線がありました。文部大臣の森有礼(もり ありのり)が、新聞「日本」の創刊日(明治21年2月11日)に、国粋主義者の西野文太郎によって包丁で刺殺されたのです。   

     廃刀論者包丁を腹にさし 

     ゆうれいが無礼の者にしてやられ 

 森有礼は強固な廃刀論者でした。その廃刀論者が腰に刀を差す代わり、凶器である出刃包丁を腹に刺したという揶揄であり、「ゆうれい」は「有礼」の音読の掛け合せの狂句仕立てですが、時事をとらえています。この二句が古嶋の脳裏には残っていました。 

 明治26年に入ると、外国との条約の励行の中心となって論陣を張る日本新聞は、記事の性格から政府ににらまれ、たびたび発刊中止や停止に追い込まれていました。こうした時代に、阪井久良岐(へなづち・滑稽和歌の一種の創始者)が、明治30年に新聞「日本」に川柳の宗匠という触れ込みで入社しました。 久良岐は、明治35年3月1日から同月29日までの約1ヶ月間に、時事句を掲載しました。初日には「芽出し柳」という名の投句欄へ自作の時事句五句を発表しました。翌2日目から「猫家内喜」(ねこやなぎ)」と投句欄の名を替えて、久良岐も「へなづち」というペンネームで自作の句を掲載し、合計89句を掲載しました。 久良岐は、明治36年11月23日創刊の「電報新聞」に移り、明治37年5月1日付から「新柳樽」の投句欄を創設しました。 

 その後、井上剣花坊が、明治36年に、日本新聞に入社。同年7月3日から同紙へ「新題柳樽」欄を創設し、7月、8月の間に自作句役1200句を掲載しました。 

 しかし、井上剣花坊は風俗川柳には到達できましたが、時事川柳には及ばず、次第に投稿中心に移行し、多くの新しい川柳作家が輩出されたのです。古嶋一雄の望みと期待した二人の時事川柳欄を創設しましたが、結果的には二人とも古嶋一雄の期待に沿うことは出来ませんでした。しかし、これがきっかけで、久良岐の「電報新聞」に川柳欄ができ、さらに剣花坊の「日本」に追従して、東京の新聞はこぞって新川柳欄を開設したのでした。 

 いずれにしても、二人の活動によって川柳作家の発言の場である新聞、雑誌、機関誌の投句欄や、結社が急増したのです。そのことは、狂句から新しい川柳へと衣替えが続くと同時に、新川柳への足固めができ、取りも直さず川柳への隆盛に大きなうねりとなりました。 

 昭和九年の初頭に井上剣花坊が『新興三十二の綜合川柳観』を発表した折の文章ですが、前田雀郎が次のように記述しています。

 「すなわち川柳は『冷刺的洞察の裸体詩、熟愛的共感の社会史』であるというところを要約すれば、『人を警め、時代を諷刺し、社会に響かせる』、つまり『時事川柳に対する生きた句』が眞箇の川柳であり、それを要望する」(原文のまま)   新聞「日本」の古嶋一雄の望んだ時事句(=時事川柳)に失敗し、そののち、一般川柳(=既成川柳)の中興の祖と言われる井上剣花坊の新川柳に対する三十二年間の思いが、ようやく落ち着いたところは、古嶋一雄によって開花された時事川柳であったということになります。しかし、古嶋一雄の当時の述懐では「失敗した」と明言していますが、この失敗は、反面、新川柳の発展は何処にあったのかを暗示しています。 古嶋一雄が目論んでいた時事と、井上剣花坊の時事の意識に相違があったにせよ、井上剣花坊の川柳が最後にたどり着いたのが、古嶋一雄が最初に求めた時事諷刺でした。 

 井上剣花坊は最初、時事どころか川柳も理解できなかったのですが、川柳を会得した終末の川柳観は、「眞箇の川柳は時事に対して生きた句である」との結論に達したといえましょう。このことは時事が川柳の根源であるとの遺言として受け止められましょう。