田舎の道

時事川柳研究会の歩み


時事川柳研究会の歩み
 

 時事川柳研究会は、昭和47年に読売新聞(東京本社)「よみうり時事川柳」欄の投句者による同好会から発足した。現在、北海道から九州までの愛好者が会員となっております。研究会の最大の目的は、時事川柳の理論武装の確立と普及に努めている。

1950年(昭和25年)

「よみうり時事川柳」と題して連日掲載の川柳募集欄が読売新聞の第一面に登場したのが、昭和25年4月1日であり、選者は川上三太郎(昭和25年~43年)であった。其の後、石原青竜刀(昭和44年~53年)楠本憲吉(昭和53年~63年)尾藤三柳(昭和63年~現在)と四代を数えている。天気予報の脇が定位置であり、文字通り読売新聞の顔の一部として定着したのである。この欄は休むことなくその時代の「今」を書き留め続けてきた。

 

1972年(昭和47年)時事川柳研究会の発足

当時の「よみうり時事川柳」欄の選者・石原青竜刀を中心にして、東京都品川区旗の台の歯科医師で川柳作家の渡部艶歯を会長に時事川柳研究会を発足させたのが始まりである。当初はというと、顧問に石原青竜刀、会長に渡部艶歯、会計は須田金三、編集長市尾凡夫、副編集長古戸左輝という顔ぶれであった。

7月に「時事川柳」第1号が発行され、昭和51年1月発行の会員名簿には84名の会員氏名が載っていて、当時は月例句会を第1日曜日の午後1時から5時まで、北大塚にある東京歯科建保会館で開催、青竜刀を選者にして、20~30名が出席、志に燃える集団としてその存在感をしめしていた。

読売新聞には明治の頃から川柳の募集欄があり、明治37年11月26日には、投句者とその欄の選者田能村朴山人を中心に「読売新聞読者懇談会」が開かれた。これが「よみうり時事川柳愛好者大会」のルーツといえる。

 

1978年(昭和53年)世論調査部担当

昭和53年春に読売新聞は紙面の刷新を図り、それ迄は婦人部扱いの〈よみうり時事川柳〉欄は現在の世論調査部に移る事が決まり、それを機に選者も交替する事になった。斬新でネームバリューのある先生という事で選者を探した。幾多の紆余曲折の末に俳人である楠本憲吉に決定した。

一方、石原青竜刀は退任の弁を会誌「時事川柳」へ次の如く寄せている。

 

前選者川上三太郎先生死去により、44年1月から〈よみうり時事川柳〉の選者を担当して来たところ、新聞社の都合により3月限りぼくは退任することになった。思えば在任の9年3か月、幾多の既成川柳界と無関係の優秀新人を発掘し、現代の川柳界に一生面を開いたと自信をもって言えるのはまさに、“みたみわれ生くるしるしあり”である。〈以下略〉

1978年(昭和53年)三代目選者

俳人・楠本憲吉就任。楠本憲吉も熟慮の上の就任であったが、俳句界と川柳界の風当たりは強く、この件でわれわれの「愛好者大会」の挨拶で憲吉はマイクの前で絶句、男泣きした。これは、非難とショックの大きさを物語った出来事であった。

 

1979年(昭和54年)石原青竜刀没

選者を辞してからは張りを失ったかのように青竜刀は体調を崩し始め、悲しい事に54年9月肺ガンにより不帰の客となった。その後を追うように昭和55年7月29日、時事川柳研究会の渡部艶歯会長も旅立たれた。

 

1982年(昭和57年)第一回「よみうり愛好者大会」

楠本憲吉選〈よみうり時事川柳秀句集〉「耳ぶくろ」の発刊を祝い、記念すべき「よみうり時事川柳愛好者大会」第一回が盛大に開催されたのである。

 

1988年(昭和63年)

楠本憲吉は「失いしことば失いしまま師走」の時世の句を残し、咽頭癌で他界した。

 

1988年(昭和63年)研究会の新スタート

4月から佐藤一夫会長と千葉尚(現=朱浪)事務局長とのコンビで再スタート。2人のエピソードも青竜刀と佐藤会長との絆を彷彿とさせてくれるものがある。千葉朱浪の話によると「佐藤先生は頑固一徹であったが、奥様を非常に大事にしていた。銀座の馴染の店に連れて行かれた折、傘をさした日本髪の女性の後姿の絵の色紙に、佐藤先生の川柳が毛筆で書いてあり、上の句は思い出せないが下句は『女坂』であった」そうした茶目っ気の一面も、一つの思い出でと言っている。また、佐藤先生は「時事川柳研究会も会社経営と同じだといつも言っており、運営の責任は俺が取るから精一杯やってくれ」と全幅の信頼をされ、現在の時事川柳研究会の繁栄がある。

 

1988年(昭和63年)四代目選者・尾藤三柳就任

「よみうり時事川柳」欄は12月20日付から新選者・尾藤三柳が就任。同日付の読売新聞は、新選者を「川柳公論を主宰する川柳界の大御所の一人。時事川柳については“庶民の健全な風刺、批判精神の深淵”と位置付け、意欲的です」と紹介している。

時事川柳研究会も新選者・尾藤三柳に新たに指導を仰いだ。

 

2003年(平成15年)佐藤一夫会長勇退・新役員の船出

同年9月6日佐藤会長が健康上の理由から会長職を勇退、会長・千葉朱浪、事務局長・服部迪夫、編集局長・齋藤松雄で新スタートさせた。千葉朱浪会長を中心に運営委員の並々ならぬ努力により、会員数も三百名を超え、興隆期を迎えた。

 

2005年(平成17年)前会長・佐藤一夫が急逝。

平成17年10月26日、佐藤一夫(前会長)逝去。千葉朱浪の時事川柳の考え方は「読売新聞社と選者と時事川柳研究会が三位一体でなければならない」を信念としている。

 

2006年(平成18年)

千葉朱浪会長、齋藤松雄事務局長(4月服部迪夫事務局長辞任)と20数名の運営委員で構成されている。

 

2008年(平成20年)再出発

齋藤事務局長・辞任 齋藤松雄・事務局長辞任に伴い、千葉朱浪会長、服部迪夫・事務局長(再任)で再出発。

 

2009年(平成21年)五代目選者・長井好弘就任

よみうり時事川柳の選者が交代 「よみうり時事川柳」欄は4月1日付から、5代目選者として長井好弘就任。長井氏は読売新聞社編集委員であり、古典落語にも精通、その守備範囲の広さで新選者像が期待されている。

 

2009年(平成21年)

4月26日、愛好者大会の席上、千葉会長辞意を表明。7月1日付、会長・服部迪夫、副会長・三好日出一・北原昭次とし、事務局は当面の間服部迪夫が兼務と云う新体制で発足。

2009年(平成21年)菊花句会・開催

11月「菊花句会」に於いて、新人事発表。事務局長・浅見勝也、編集局長・伊藤正美とする。

 

2010年(平成22年)浅見勝也事務局長・辞任

3月、事務局長・浅見勝也体調不良により事務局長辞任。服部迪夫が再度事務局長兼務とする。

 

2010年(平成22年)読売新聞・気流欄・社告掲載

4月19日、朝刊の気流欄に初めて愛好者大会の社告を掲載していただく。4月25日、第27回愛好者大会開催。(はあといん乃木坂・健保会館)川柳大会開催の社告の反響大。大会まで一週間足らずではあったが、多数の問い合わせをいただく。

 

2010年(平成22年)第2回菊花句会・社告掲載

11月1日、朝刊・気流欄に菊花句会の社告を掲載していただく。11月14日、第2回菊花句会開催(はあといん乃木坂・健保会館)。ベテランから新人まで幅広い層の参加をみる。